日本の将来

日本の政治についてのブログです。訴訟準備のため選挙後は不定期更新となります。

なぜ日本は日米戦争へと突き進んだのか?経済制裁とドイツの思惑

太平洋戦争での三国同盟、突然やってきたアメリカとの衝突、それらを語る上では日中戦争が大きな原因であったことを欠かすわけにはいかない。

近衛文麿首相の「東亜新秩序の建設」という声明にに対して蒋介石は声を大にして避難する。

「この新秩序こそ中国が奴隷国家に成り下がり、日本が作り上げた満州偽国と連絡して完成するのである。東亜の新秩序と東亜の国際秩序を破壊し、奴隷的中国を作り出す。太平洋を独覇し、世界分割の企画を遂げんとする総名称に他ならない」

歴史を知らずなんでも都合の良い解釈しない者を私はネトウヨと呼んでいる。

それは愛国心でもなんでもない。例の田母神論文が叩かれるのも「先の日本の戦争は侵略ではない」と結果だけ見て発言したからである。叩かれると「日本を良い国と言っただけで叩かれた、この国はおかしい」と開き直るアホ。

満州国立国の目的


結果としてアジアは解放されたが、最初からそれを目的として日本は戦争を始めたのではない。中国本土に満州国を作ったのは関東軍・石原莞爾の最終戦争論に基づくものであり、満州を栄えさせることによって資源のない日本は生産性を上げることができ、それならばアメリカと戦争をしても勝てるというもの。結果的に盧溝橋事件により日中戦争へと発展、米英との衝突を反対した石原は関東軍ら去る事になった。
当時の日本は他のアジアの国のように植民地になるか?それとも欧米列強を見習って他国へ侵略するかという選択しかなかった。日本は後者を選び富国強兵という政策に見られるように軍事国家となった。

日中戦争とアメリカ


近衛文麿首相の「東亜新秩序の建設」が宣言された時、昭和15年8月、ついにドイツがフランスなど西欧諸国を占領し、日本は陸軍が推し進めるドイツ、イタリアと三国同盟を結ぼうとしていた。そして9月に調印が完了し、日本は終わりが見えない日中戦争を繰り広げている最中で、中国は広い国土の中を逃げ回り、重慶に暫定政府を作る。それを日本は爆撃を実施していた時期である。

盧溝橋事件から日中戦争へ拡大し、米英にとって日本の拡大は中国での市場と権益が犯されることに他ならない。危惧していたところに米英の権益をさらに踏みにじる近衛首相の「東亜新秩序の建設」。当時の中国は米英による植民地そのものだった。

アメリカはこの声明に対して強く反発。第1次世界対戦後アメリカは9カ国条約体制を対中政策の基本にしており、満州事変に続く日中戦争の拡大、そして近衛声明はアメリカの対中政策の原則に対する公然たる挑戦状と受け止めていた。

その時点でアメリカは、日本に対する経済制裁をすべきという意見が高まっていた。しかし当時のアメリカは軍事力の整備が遅れており、もし日本に経済制裁を加えて反撃してきた場合、対抗できないかも知れないと危惧しており、日本に対しては非難と牽制に止め、中国に対してはますます支援を強めていった。

アメリカの経済制裁


しかし昭和14年6月14日天津り日本陸軍は 天津英仏租界を封鎖する。理由は租界が抗日運動の避難所になっている上に、国民政府の通貨の流通拠点になっているとして英仏租界に流通の禁止と法幣の引き渡しを要求していた。

その結果、租界を封鎖されたイギリスは、東京で有田八郎外相と会談し日本の要求を受け入れて譲歩した。これを知ったアメリカはいよいよ対日経済制裁の時が来たと判断し、7月26日に日米通商航海条約の破棄を通告、これがアメリカの経済制裁の始まりである。

まずアメリカは主な輸入品である綿花・鉄鋼・石油 に関しては輸出をそのまま続けることにした。これについてはハル国務長官らの慎重な姿勢が理由である。最初の適用品目は全ての兵器、軍需品、戦争機材、非常時戦略物資であるアルミニウムやマグネシウムを含む全ての原料資源、航空機部品、金属製造設備などがリストアップされた。

その後日本はフランスの弱体化を見越してフランス領インドシナ当局に、日本軍の通行許可空軍基地の使用、軍事資材の貯蔵、さらにはフランス領インドシナ経済の日本経済への統合協定などの要求を突きつける。

さらにオランダ領東インドに対してもフランスと同じく、本国がドイツの占領下にあることを見越して石油ゴムなど13品目にわたる原料資源の買い付け要求を突きつけ、フランスもオランダも日本の使節団受け入れを認めざるを得なかった。

この日本の素早い行動はハル国務長官の思惑を遥かに超えるもので展開されていた。また9月23日の日本軍は北部インドシナに駐屯したという情報も追い打ちをかけている。
こうした日本の行動に押されるようにハル国務長官も日本へのくず鉄・鋼鉄の全面禁輸に同調し、ホワイトハウスが9月26日「大統領は10月16日以降、全等級のくず鉄・鋼鉄の輸出を許可制とすることに同意した」と新聞発表した。
そしてその翌日の9月27日に日本はドイツイタリアと三国同盟を組むことになる。イギリスが死闘を繰り広げているドイツ・イタリアと同盟したということは、イギリスを援助しているアメリカをも敵に回したことにほかならなかった。

陸軍が推し進めた三国同盟


その後、日本は南部仏印進駐しこれも英米を硬化させ、こうした日本の一連の行動は英米との対立を決定的にした。日本海軍は山本五十六を始め、米内光政は三国同盟には反対の立場で「英米とは戦争しても勝ち目がない」という姿勢を強固に取っていたが、推進派が米内光政海軍大将を辞任へ追い込み、無能な近衛内閣は倒され、第二次近衛内閣が出来上がる。

その後、大半のアジアを植民地にしていたアメリカ、イギリス、フランス、オランダリ中で、ヨーロッパの戦争に参加していないのはアメリカだけだった。
そのことから日米交渉が行われるが、当時のアメリカはイギリスがドイツの本土爆撃に耐え忍び、反撃に出ているのをみて、ヨーロッパ参戦、反枢軸選介入を決意。そのためには今は太平洋で日本と決定的対立になってはまずい、整備が整うまでは適当に相手をしておけばいいという考えだった。

勝ち目のない戦争をした日本


その後日米交渉が行われ、ハル国務長官の覚書であるハルノートが送られ、この内容はとても日本の軍部が容認するようなものではなかった。詳しい内容は個々では省く。
さらにアメリカは8月1日に対日石油輸出の全面禁止令を出す。イギリスとオランダ東インド領も即座に後を追った。この措置は石油輸入の7割から8割をアメリカに頼っている日本にとっては大きな痛手となった。石油がなければ軍艦も飛行機も動かない。こうして包囲網はまてます強まり、日本は軍を中国から撤退させない限り、英米と戦う以外に道がないことがはっきりしたのである。

こうやって追い詰められた歴代で最も無能であった近衛文麿は10月16日に逃げるように総辞職し、東条英機陸軍大将が首相の椅子に座った。日本は石油や鉄ないまま負け戦とわかっている日米戦争への道へ突き進んだのである。

ここで日本はハルノートの要求どおりに終わりのない日中戦争をやめればよかったのである。3年間重慶を空爆したのも地形が入り組んでいる重慶では地上戦は圧倒的不利だったからだ。結果的に日本は、一方的に日本が譲歩しろと書かれたハルノートの内容に激怒してしまう。
これはある意味アメリカの方が一枚上であり、石油も鉄も経済制裁されている日本が負けるのは明白だった。
しかしハルノートという日本にとっては許されざる内容の文書を送ればきっと日本は激高して戦争をけしかけてくると踏んでいたのである。この時の日本はあらゆる面で冷静さが欠けており、この陸軍の暴走が多くの犠牲者を出し、赤紙が送られてきた20代、30代の若い命が餓死や爆撃で死ぬことになり、原爆によって非戦闘員である女子供が焼き殺され、地上戦が行われた沖縄では一般市民の多くが犠牲となる。

日中戦争で日本が重慶を爆撃しているところ、中国共産党の周恩来はその重慶で演説にしていた。その中で

「ドイツ・イタリア・日本の三国同盟のドイツの意図は、日本を太平洋引き出すことでアメリカに当て、アメリカの力を防ぎ牽制することが目的である。日米間における突然の矛盾に満ちた先鋭化、並びに情勢の急転はまもなく大衝突となって発生するだろう」

と予想している。

にほんブログ村 政治ブログ 保守へ
にほんブログ村
[ 2018/05/10 15:06 ] アメリカに関するもの | TB(-) | CM(-)
スポンサードリンク
カテゴリ