日本の将来

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日中戦争の泥沼化と蒋介石の目論見

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日本は侵略戦争をしていない、アジアの解放のために戦ったという方は、日本が行った満州国建国と盧溝橋事件に端を発した日中戦争をどう解釈しているのだろうか?太平洋戦争では一応、近衛内閣が発した「東亜新秩序」の宣言によって当時の日本国民は日本はアジアの解放のために戦っているのだと思っていた。実際、太平洋戦争が終わり、植民地となっていたアジア諸国は欧米列強から解放されている。結果的にはそのように成ったと言ったほうがいいかも知れない。

しかし日中戦争に置いては、当時の日本は中国や他のアジアの国のように欧米の植民地に成り下がるか、それとも欧米のように戦争をして領土を拡大するか、という選択で後者を選んだのは確かだ。富国強兵という政策を取り軍事国家へと突き進んだ。しかも蒋介石は日本に攻められるだけでなく、上海では日本軍中尉を銃殺するなど、わざと交戦へと誘い、世界に向けて日本が侵略していることを知らせ続けていた。これは現在も取り沙汰されている南京大虐殺へとつながっていく。
下記は大まかな日中戦争の経緯を時系列である。

日中戦争で快進撃を続ける日本軍


盧溝橋事件から20日まで過ぎた7月28日日本軍は北京天津付近を中心に総攻撃を開始。この時通州方面では中国軍が日本軍特務機関と在留日本人を虐殺し、民間人223人が殺された。この事件が日本に伝わり日中戦争を支持する声がにわかに湧き上がった。

三日間の総攻撃によって日本軍は北京や天津を占領し、その一帯から中国軍を完全に追い払う。日本は軍部や政府の様々な機関で中国政府につきつけるべき和平条約を作成し「中国政府は同意するだろう、蒋介石は日本の要求を飲むはずだ」と確信していたが、蒋介石は降伏することなく広い中国国内を逃げ回る。

その頃上海方面では中国が日本軍に反撃しようとしていた。上海にはフランス租界や共同租界と呼ばれる地域があり、抗日運動が盛んにその地域で行われていた。 その上海には2500名の海軍特別陸戦隊が陣取っていた。

大山事件発生


昭和12年8月9日、その陸戦隊の大山勇夫中尉が乗る乗用車が襲撃され、運転手もろとも射殺される事件が発生する。
これについて中国は二人が挑発したから応戦したまでと反論。
8月13日、中国軍による攻撃が始まり、それに誘われるかのように日本も陸軍部隊の派兵を決定、これが上海派遣軍である。
これは蒋介石があえて上海での第二戦線線を開くことによって、世界へ現状を示したと一部で伝えられている。

その後日本は華北と上海を同時に責め、特に上海では激戦が3ヶ月続き海軍航空隊が戦闘鮭から南京など広い範囲を空爆したが、中国軍は蒋介石曰く「外国人に見せるため」精一杯抵抗した。
この頃から世界は侵略国が日本であることを知り、同情が中国に集まっている。蒋介石は第10軍が新たに派遣されたの潮時に撤退を命じた。

上海を占領した日本軍は勝手に首都南京を目指してしまう。
南京は上海の西約300kmの場所にある。敗退する中国軍を攻撃するという名目であったが、その段階では大本営は南京を攻略すべきかどうか迷っていた。しかし部隊は勢いに乗って勝手に南京を目指し、それを制圧するはっきりしたポリシーがないまま、12月1日になって後追いの形で南京攻略の天皇の命令が発せられた。

南京攻略した日本


日本軍が南京の城壁の一角に最初によじ登ったのは12月11日の午後である。
日本軍は続々と場内に侵入し、12日午後になって中国軍は撤退を開始し始める。そして13日に南京を占領。

その頃掃討作戦が過酷を極めることになった。捕虜なった中国兵は束になって殺害され、一般市民も兵士と疑われ、容赦なく殺害されている。この頃世界は日中戦争に注目しており、このような虐殺の実態が世界に向けて報道されており、知らないのは日本人だけだった。

死者数は中国では約30万人と現在も信じられているが、日本では大虐殺はなかったと主張している向きもあるが、研究者の間では20万人4万人などと様々な数字が挙げられている。

その後一時休戦協定の話が持ち上がるが、日本は和平の目を潰して徐州を占領する。そして武漢三鎮へと突き進み、現在は武漢市と呼ばれているが、当時は武昌・漢口・漢陽と呼ばれ、昔から外的を防ぐ重要なことになったので三鎮と呼ばれていた。
日本はそこを占領して中国を降伏させようとした。すでに目星しい場所はこの武漢三鎮と広東ぐらいしか残っていなかった。

中国軍はほとんど抵抗せず武漢三鎮を占領することができ作戦は終わった、その後新設の第21軍が広東を占領する。ここでも中国軍はほとんど抵抗しなかったので、約10日で作戦を終える。しかし徹底抗戦を極めていた中国が降伏するはずはなかった。日本はこれからどうすべきか途方に暮れるのである。

降伏しない中国


この時点で日本軍が確認した中国軍将兵の遺棄死体81j万3300名、日本軍の死者は47000名だった。

その後中国は重慶に臨時首都を移す。重慶は進撃するにはあまりにも奥地で地形が険しかったため地上戦は通用せず、代わって実施されたのが重慶の徹底的な空爆だった。雲城から陸軍航空隊が出撃したがその距離は約800キロ。昭和14年から16年の3年間にわたり連続空爆と空からの無差別攻撃に徹することになる。

昭和15年7月9日の大本営陸軍部発表によると中国軍の遺棄死体は158万7000、占領面積は160 km2となり、これは満州国を除く中国本土の51%を占めていた。日本軍の戦死者85800名。
大本営では遺棄死体は確認した死体数の合計であり、それ以外の人的損害を加えると少なくとも300万人以上と判断している。

粛清戦争と三光


しかし戦いは一向に終わらなかった。占領地内あるいは占領地周辺の中国軍が活発な反撃を止めることがなかったからである。
これに対して日本軍は粛清戦を繰り返した。例えば中原会戦と称される粛清戦争では日本軍約4万名が中国軍118万名と激突したが、43000名を殺し35000名を捕虜にすることで日本軍の勝利に終わっている。また共産党軍は農村地区に浸透し農民の協力を得つつ日本軍と戦った。日本軍はそれらの無数の集落を襲い、三光(奪い尽くし殺し尽くし焼き尽くす)を行った。

結果的に終わりの見えない日中戦争は泥沼化し、中国側に3年間で少なくても300万名何人の人的被害を出すほど過酷なものになった。万舟券国ではあっさりと引き下がった蒋介石ではあったが、日中戦争では人民を犠牲にしながらも徹底抗戦し、その惨状を世界へ向けて発信し国際世論を味方につける強かさもあった。

結局、日本はこの日中戦争を行っている最中に陸軍の暴走により三国同盟を締結させ、英米を敵に回してしまう。これについて蒋介石は日本の負けと中国の逃げ粘りを確信し、周恩来はドイツの意図は日本を太平洋へおびき出しアメリカに当てて、アメリカの弱体化を図っている、日米間における突然の矛盾に満ちた先鋭化、並びに情勢の急転はまもなく大衝突となって発生するだろうと演説で述べている。

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[ 2018/05/29 18:33 ] チベット人弾圧について | TB(-) | CM(-)
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